第二次世界大戦後、1947年4月15日、戦勝国イギリスは、ドイツが自力で経済復興をすべく、「輸出見本市」(「ハノーバー・メッセ」の前身)を同年8月18日~9月7日に開催するように要請した。戦前、ドイツは見本市が非常に盛んでライプチッヒがそのメッカであったが、戦争で東側に行ってしまったので、西側に会場を探すことになる。ドイツ全土を探すが適当なところがなかなか見つからなかったが、ハノーバーに焼け残った飛行機のエンジン工場が決定要因となり、ハノーバーに決定する。短期間で古い工場設備を撤去しメッセ会場建設を4ヶ月で整える。同年8月16日、資本金120 旧ドイツマルクでドイツ産業見本市株式会社を設立。
 8月18日12時15分、予定通り戦後初の「輸出見本市」が幕を開ける。1.298社の出展社は3.150万ドルの売上を上げた。4.000人のバイヤーの他、100万人近い市民が訪れた。ホテルなどまだないので宿泊所用に23の学校を休校にして使用した。
 第2回目は、予定をはるかにオーバーした出展社が集まり、このハノーバー見本市は世界最大規模の見本市となった。
驚異的発展の50年代
 出展希望多数の為、1949年から1952年まで、消費財主体の「輸出見本市」と生産財主体の「技術見本市」の2つの見本市に分けられる。1951年、国際見本市連盟(UFI)の正会員となる。1954年、5年間2つに分かれていた見本市は新しいホールができ再び1つとなり、1960年まで「ドイツ産業見本市」(Deutsche Industrie Messe)と呼ばれた。(ハノーバーフェアーズジャパン(株)はこの頃に付いた名称)
 1955年、40万平方メートルの会場敷地を市から購入、初めて敷地と施設を所有することになる。
 1959年には、4.600社の出展社の内、782社が国外からの出展で、名実ともに国際見本市となる。
ますます国際化する60年代
 1961年より「ハノーバー・メッセ」と呼ばれるようになる。更に、敷地100万平方メートルを購入する。また、フランスとアメリカが積極的に出展し始める。1964年に、日本からも初めて大量の出展社(15社)が電気分野に出展。
 「ハノーバー・メッセ」の出展社数は、60年代前半に5.000社から6.000社へ、また外国出展社比率も30%と“世界のマーケット”と言われるようになった。1964年には、旧西ドイツ首相(エアハルト)が初めて「ハノーバー・メッセ」の開会宣言をした。
不安定な景気にもかかわらず伸びた70年代
 1970年、半年前に政権をとった社会党のブラント首相がオープニングスピーチをする。同年、世界最大の展示ホール(1号館)が完成し、国際事務・情報見本市「セビット」が「ハノーバー・メッセ」の中に加わる。日本の複写機メーカーが多く参加するようになり、日本からの本格的出展の幕開けとなる。1972年には、“メッセはマーケテイングインスツルメントでなければならない”というコンセプトができ、会期中、会場でビジターアンケート調査がはじまる。また、ハードとしての展示ホール以外にも、ソフトとしてのインフォメーションセンター、会議場、プレスセンター、それにビジター用出展情報検索システム(EBi)を備える。1975年、「ハノーバー・メッセ」より木工機械分野が分離・独立して「リグナ」を開催。1977年、「ハノーバー・メッセ」にパワートランスミッション、油空圧、自動制御技術分野(ASB)が加わる。
発展し続ける80年代
 1980年前後には、「ハノーバー・メッセ」にコンピュータとその関連機器を手がける多数の日本の電気精密機器メーカーの出展が目立つようになる。1980年から、工業化を目指す開発途上国が国として出展参加ができる「パートナーの国」特別展が始まる。1981年、ヘックマン展示会社がドイツメッセの子会社になり、国内向けの見本市や展示会を担当することになる。1982年は好業績をあげる。特に、「セビット」の発展には目を見張るものがある。そして、1986年、「セビット」はついに「ハノーバー・メッセ」から分離・独立開催となり、両見本市はさらなる発展を続けることになる。80年代には、この他、生命工学見本市「バイオテクニカ」(1985年)やカーッペト・フロアーカバリング見本市「ドモテックス」が新たに加わった。
90年代、そして将来
 90年代を迎え、見本市におけるテクノロジーの発達と歩調を合わせるかのように、ドイツメッセは見本市会場のインフラの整備を図って行く。2000年万博にノミネートしたことにより、大々的な展示館の増改築、会場施設の充実、インフラの向上が行なわれた。ドイツメッセは、「エキスポ2000」を契機にこれまでの国際見本市を世界見本市に発展させていくとともに、ハノーバー見本市の国外版を大陸毎に開催していくことになる。このため、2000年には上海に見本市会場(SNIEC)を完成させた。2003年からは「セビット」や「バイオテクニカ」のアメリカ版が展開される。
資料:ハノーバーフェア―ズジャパン(株)

【余 録】

 編集子が初めてハノーバーメッセを見学したのは、1968(昭和43)年10月、「日本木工機械新聞」を創刊したが、その2年後の1970(昭和45)年4月から5月に掛けて21日間、ツアーを募集、約40名ほどで欧州各国を周遊しながらハノーバーメッセを視察した。出発は羽田空港からアンカレッジ経由北回りで、“空の貴婦人”と呼ばれたDC-8機ルフトハンザ航空であった。1ドルが360円で、渡航の際は所持金が500ドルと制限されていた。当時のハノーバーメッセの規模は15ホールに工作機械・一般産業機械・電気機器類のうち木工機械関連は3ホールを使い、屋外には建設機械と林業機械が展示されていた。ハノーバーメッセの木材加工機械担当の責任者であったヘルマン・タイス博士は『日本からの業界ジャーナリストと初めって会った』とインタビューに答えてくれた。その後「リグナ」として木材加工機械と関連機器・林業機械が分離独立したのは、それから5年後の1975年であった。
今年の5月22日から26日の5日間ドイツ・ハノーバーで「LIGNA 2017」が開催されるが、
同展の歴史についての一端を2013年6月に掲載した内容を参考までに再掲載した。
1982年
1949年
2000年
万博で製作した大型木構造の建物
今でもこの下で展示が行われている

P:Ligna Press
P:Ligna Press 2013
Woodfast 13.6-LIGNA-3
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DC-8の同型機(LINES.NET:photo by Mel Lawrece)
1947年(ポスターの上3点何れも同時期